『受付周りが寂しいから』と気を遣って頂き、ご自宅で育てたお花を持ってきて頂いています。
いつも目に入る所にあるせいか、忙しい時や、一日終わった時などに、ふと癒されている自分がいます。
植物という自然が、人工的な屋内にあるというのが、なにかほっとさせてくれる気がします。
目から見える光景、耳から聞こえる音、鼻で嗅ぐにおい
これら全て情報です。
時間に追われている時、一日の終わりで少し消耗しているとき、
この花を見ると、少し気持ちに余裕が生まれるのは、少し消耗が緩和されるのは、
それは、この花が持ち合わせている《余裕・ゆとり》なのだと思う。
その《余裕・ゆとり》と対峙すると、その《余裕・ゆとり》を少し分けてもらった感じがします。
となると・・・自分の余裕の無さ、消耗というのを、分けてしまっているのかな??
そこは、お互い様で在れるように、僕も花にとって、有益なものを分け与える事ができる存在でありたいですね。
そっち と こっち
自分 と 相手
相手 と 自分
始まり と 終わり
終わり と 始まり
因果となると、一方向性になるけれど、
こっちの結果 と そっちの結果
すべて、相互、相補な関係ならば、双方向性
変わって欲しい と 願う、想うならば
こっちが変われば そっちも変わる
こちらがいくら、変わったと主張しても、
目の前の現実が、想い通りの変化でない
こっちは変わったのに、うんともすんとも・・・
何が 何処と 対応しているのか。
鏡 のようであれば、目の前の人の向かって左側の手が上がっている事を望む場合、
こちらは、右手を上げなければいけない。
左手をいくら上げても、目の前の現実は、向かって右側の手が上がるばかり
その対応は、場所なのか、同じ場所でも、目に見える表面なのか、目に見えない深層なのか
対になっていることもあるかもしれませんね。
徐々に。
4月、5月は何を発信すればいいのだろうか?
あまり、場違いな事は、かえってよくないだろうか。
かといって、時事的な事を掘り下げてる事は、自分がすることでもないし。と。
そういう時は、都合が良いのか悪いのか、書く事すら思い浮かばないものなんですね(笑)
最近になって、少しづつ、文章に起こしたい事、お伝えしたい事がまたちらほらと出てきました。
今までもそうでしたが、これからは益々、健康というものの在り方が問われます。
皆様にとって、有益な情報を提供することも、『整体』なのだと、花から教わりました。